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感想

この残酷な世界でー『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』

観ました。

chiikawa.toho-movie.jp

 

映像化によって、セイレーンの大きさ、怖さと、キャラクターデザイン、声のかわいらしさというギャップが強調され、強者ゆえの無自覚な加害性がより顕になっていたと思う。強大な力を持っているのに子供のように無邪気で、ちいかわ族を食べても殺しても罪悪感を感じない。ちいかわの世界において、罪悪感のような自己を否定する感情は、抑圧された弱者=ちいかわ族しか抱きえないものだ。セイレーンは強いから否定されない。傷つかない。よって自己の欲望を抑圧すること、諦めることを知らない。

セイレーンとのバトルで、ちいかわたちを危険に晒すのが常にモモンガであることは、セイレーンともちいかわたちとも異なるモモンガのポジションを明確にしている。モモンガに協調性がないのは、生来小さく弱いものとして「わきまえて」生きてきた ちいかわたちとは違って、欲望に忠実に生きていても命を脅かされていない、つまるところでかつよ=セイレーンに近い立場にいたことを示している。ちいかわ族の代表者*1であるちいかわは、そんなモモンガへの嫌悪感を隠さない。なぜ人魚を食おうとするのか。仲間を危険に晒すのか。わがままばかり言うのか。ちいかわにとって、モモンガの存在は理解不能なエイリアンだ。そして、モモンガは元の持ち主から身体を奪ったでかつよなので、その直感は正しい。

一方で、そんなモモンガも結局は永遠の命を諦めるほかない。これは、ちいかわ族がでかつよ(強者)に勝利しないことを暗示しているように思われる。でかつよの頃であれば存在しなかった挫折をモモンガは経験しなければならない。少し話は逸れるが、そのような大きな代償を払って、モモンガが手に入れたかったものが「かわいこぶること」であったのは興味深い事実である。弱肉強食の論理で貫かれたちいかわの世界で、「かわいい」ことがモモンガにとっては強いことよりも重要な意義をもつ。これはモモンガ特有の考え方のように思えて、ちいかわの世界に存在するもう一つの論理であるように思われる。かわいいことは絶大な力を持っている。実際、顔のないちいかわ族は容赦なく命を奪われるのに対して、ちいかわたちは数々のピンチを乗り越えて生き延び続けている。もちろん、それはちいかわたちがメインキャラクターだからに違いないのだが、今回メインキャラクターであるヒトハとフタバに最後まで顔がつかない(かわいくない)ことも、この論理を補強しているように思えてならない。


元でかつよのモモンガですら、象徴的な意味でも勝つことができないセイレーンに、一矢報いたのが他でもないヒトハなのだ。でかつよに対して討伐でなく自らの意思で*2抵抗するヒトハは作中でもかなり特異な存在である。

ラスト、ちいかわが二人の秘密を守ることを決意する際、ちいかわの胸中は定かでない。

ヒトハとフタバの性格は、ちいかわとハチワレによく似ている。ヒトハが臆病な性格なのに対し、フタバはちいかわ族にしては大胆な行動をとる。まだ人魚が3匹いた頃に海でセイレーンたちに声をかけるのも、図鑑で人魚を食べると永遠の命が手に入ると気づいて教えるのもフタバである。これはうさぎと共に洞窟に入ってしまう向こう見ずなハチワレ、好奇心旺盛であることから読書家であり、人魚の伝説に気づくハチワレとどこか重なる。ヒトハがそんなフタバの行動を心配する様子は、ハチワレの言動にツッコミを入れるちいかわに似ている。

ちいかわは二人が人魚を殺して永遠の命を手に入れたことは知っていても、その経緯は知らないはずだ。二人に真実を知ってしまったことを告げようとして、焚き火の周りを静かに歩く背景では、前半に脈略なくハチワレが歌い出した「今日の日はさようなら」が流れており、迷うちいかわの顔をハチワレがやさしく覗き込む。

観客がここで予感するのは、ちいかわ/ハチワレがヒトハ/フタバと同じ運命を辿る可能性があるということだ。ちいかわがもし同じような状況に置かれたら、復讐のため人魚を殺してハチワレを救い、「いつまでも絶えることなく、友達でいよう」とするだろう。だから、ちいかわは二人を責めることができなかったのである。

 

どうすればよかったのか。島二郎とラッコが言うように答えは出ない。セイレーンが悪意なくフタバを殺しかけ、フタバを助けるためにヒトハは人魚を殺め、その怒りから島の子達の命は奪われた。映画ではヒトハの抵抗も虚しく、セイレーンはその強大な力によって人魚の復讐を果たすことがエンドロール後に暗示される。この惨劇をどうすれば止められただろうか。ヒトハがちいかわ族らしく、泣き寝入りすればよかったのか。私はそうは思えない。

キャロライナリーパー入りカレーを食らって苦痛にのたうち回るセイレーンの叫びがかなり長い尺で響き渡るのが印象的だった。セイレーンをはじめとしたでかつよがひょいひょいとちいかわ族の命を奪う軽い表現と比較して、たかだか辛いカレーを食べさせたくらいの加害性がここまで強調されるのだ。加えて、その横でとどめを刺すことを躊躇う島の子達が表すように、ちいかわ族は本当の意味で加害者にはなれない。

この残酷な世界で、ちいかわたちの「かわいらしさ」がどれだけの力をもつのか。ちいかわはヒトハの継承者として、この世界に抵抗することができるのか。実はしばらく原作を終えていなかったのだが、映画で『ちいかわ』の物語としての強度を再認識し、ちいかわたちの行く末を見届けたくなった。


ファミリー映画として、凡百の「トラウマ映画」とは異なり視覚的な怖さが少なく*3、キャラクターのかわいらしさも存分に楽しめる映像になっていることが好ましい。子供に無理やり連れられた親世代も真剣に楽しめるだろうし、真相に気づいた子供も、ちいかわのダークな世界観にいっそう夢中になるだろう。まさに子供も大人も楽しめるファミリー映画だった。

*1:ちいかわの一話を参照すればこれは明らかなことである。

*2:討伐もまた、上位存在から課された労働に過ぎない。

*3:ヒトハが人魚を殺害する間しるこサンドが映され、解体後もおいしそうな煮つけとして登場するのみで、遺体は画面に映らない。

労働に魂を明け渡してはならない

連日長時間労働がつづき私生活が疎かになっている。部屋は埃まみれ、ゴミなのかなんなのかよくわからない物が溢れかえり、休日も疲れ果てて掃除に手がつかない。毎日心から仕事を辞めたいと思いながら起き、帰りたいと思いながら職場に向かい、頭痛や腹痛に苛まれながらタスクを消化し、もうここにいたくないと思ったら退勤して、歯軋りをしながら寝る。以下繰り返し。

仕事は得意だ。たぶん、自分ができることの中でいちばん得意なことだと思う。だけど、今の仕事は、私のできることややってきたことから大きく飛躍している上、実質人の2倍の仕事を負わされている。なのにそのことを周りの誰も気づいていないのか気づいていないフリをしているだかで、抱えきれない岩を背負いながら生きているような心地だ。人に頼らない自分が悪いのだし、タスク分担の能力がないのが悪い。そういう言葉が内から自然と湧き上がり、本当に体が動かなくなる瞬間もある。もう限界だ、やめてやる。

一方で、逃げてたまるかと思う。逃げたら負けだ。悔しい。絶対に最後まで生き残ってやる。食いしばりがひどくて知覚過敏が悪化しているけど、それでもやり遂げてやる。無限列車編の竈門炭治郎が森の中へ逃げようとする私に向かって叫ぶ想像をする。「責任を取れ。逃げるな。」

三宅香帆は半身で働くことを提案した。勅使河原真衣も同じようなことを言っていたと思う。しかし、誰かが半身で働けば他の誰かが1.5身働かなければならなくなることをみんな知っているはずだ。彼女たちが、組織として社会としてみんなで半身で働くことを目指しましょうと言っているのは理解している。だがどうしても想像できない。会社で夜遅くまで働いている先輩を見ると、私だけが半身で働くわけにはいかないと思う。「責任を取れ。逃げるな。」よりよい職場環境を目指すための本を読んでいるのに、現実と引き裂かれそうで苦しい。

そしてまず、私はゼロヒャクの人間なので、どっちともつかない中途半端な心境でいるのがよくない。7時間寝て、労働について人文学的に考える正気の私は、働かなくてもいいと言っている。5時間寝て12時間働いている私は、働けと言っている。昼休みに菊池夏野の本を読んでいたら、Teamsの通知が来て慌ててPCを開く。分裂だ。逃げろ。逃げるな。サボれ。サボるな。

葛藤を抱えるのに耐えきれなかった。2月17日の日記にはこう書かれている。

中途半端に正気だから苛立つしつらい。正気を失おう。働いて、本読んで筋トレして、走れ。狂った世界でなぜ私がご自愛を頑張らなくてはならない?体を壊してもいい。とにかく走りきろう。

メンタルと身体を天秤にかけて、身体を犠牲にするしかないと思った。職場は私におかしいことをさせているのにどうして私だけ正しく自分を労わる努力をせねばならない?はっきり言っておくが、セルフケアは抵抗ではなくて服従だ。だから私は毎日すっぴんで出勤している。肌のあらもくまも全部隠さない。髪はいつだってボサボサだ。服が毛玉だらけなこともある。脱コルセット運動は部分的に正しい。疲れている姿を職場で見せつけるのが私の抵抗だと信じている。「ひとりで背負わなくてよい」と声をかけただけで免罪符になると思うな。私ひとりで考えた様々な段取りにフリーライドしてくるな。やさしい言葉をかける暇があるなら、私の持っているタスクのひとつやふたつ巻き取ってみせろ。

映画『ファイトクラブ』が好きだ。あれは資本主義の自滅を描いていると思うから。マッチョイズムが、マスキュリニティが、本来目指していた輝かしい成功の遥か彼方へ飛んでいく。自分の身体の傷を軽視し、睡眠を怠るとどうなるか。ビルが破壊される。資本主義が終わる。ところがどっこい残念なことに、私が加速したところで資本主義は終わらない。「世界の終わりを想像するより、資本主義の終わりを想像する方が容易い。」その通り。せいぜい過労で自分の心身を壊すのが関の山だ。全部わかっている。

『ファイトクラブ』の原作者チャック・パラニュークの『サバイバー』も大好きだ。

染み抜きであれ、魚のわたを取るのであれ、家の掃除をするのであれ、何かをきれいにすることで世界をよりよい場所にしていると考えたくなるが、現実には、世界がより悪いほうへ向かうのを放置しているも同然だ。

私は自分の仕事が世界をよりよい場所にしているとすら思っていない。目の前に染みのついたシャツや魚や汚れた家があるように、毎週定例会議が巡り巡ってくる。クソの役にも立たないExcelファイルやPowerPointスライドを作成し続けている。生成AIは莫大なエネルギーを食い潰す。業界の偉い人は核融合の夢をみているらしい。みんな疲れているだけだ。12時間働いていればニュースを読む時間もない。事実としてない。でもショート動画だけは見れるという人が私以外にも何百万人といるはずだ。確実に世界はより悪いほうに向かっている。

現実の社会では、同じ雑用を延々と繰り返し、日々の枝葉末節に埋もれることしかできない。  掃除すべき暖炉がある。  刈るべき芝生がある。  ワインセラーのボトルを残らず回転させて向きを変えなくてはならない。  刈るべき芝生がある。ふたたび。  磨くべき銀器がある。  以下繰り返し。

フーコーは本当に偉かった。権力の形態というのは、抑圧と抵抗によって表されるものではない。網の目のように張り巡らされ、私たち一人ひとりの身体に刻み込まれている。私は明日期限の資料を作らず、昼まで寝て、会議を飛ぶ権利がある。しかしそれは絶対にできない。体は勝手に動く。もう動かないと思っても動く。上司のまなざしを身体化し、客の要求が自分の生よりも優先されると叩き込まれているから動いてしまう。そんなわけがない。権力なんて間違いで嘘っぱちで、出鱈目だ。わかっている。全部わかっている。

ところで私が決意を固めたのはプランクをしているときだった。実はさっきの日記はこう続いている。

とプランクをして思った。身体的なダメージこそが生の喜びを復活させる。明日は何時退勤でも走ろう。

去年の6月からランニングを、9月から軽い筋トレを始めた。運動は苦しいことの連続だ。特に走ることはかなり苦しい。苦しいという感覚に疑いようがないから、走ることが好きだ。明日のよくわからない会議の不安は、今この瞬間息が上がって内臓が痛くて止まりたくて仕方ないという苦しみが掻き消してくれる。苦しみこそがリアルだ。リアルに私の身体が存在することを走っている瞬間は十全に感じることができる。翌日は21時に退勤して3km走った。

そしてなぜだかわからないが、走った後は本当に悩みが薄れている。感情は脳内物質の分泌に過ぎない。走り終わると一筋の光が見える。やるしかないのだ。走った後は迷いなく「やるしかない」と思う。

ここまで書いたことは、すべて、間違っている。建設的な解決に向かう目処は立っていない。曖昧な状態を運動で誤魔化しながら現実を直視しない以外に、自分自身の状況を良くすることができない。ドンデコルテの漫才に希望を感じなければならないことが悲しい。

それでも立っていられる体力があり、パラニュークが好きで、上司からも評価されているから、私はリーンイン・フェミニズムだとか、名誉男性だとか言われるのだと思う。好きに呼んでくれ。

 

というのが、上司に相談することを決意する直前まで書いた文章だ。ファイトクラブ的な加速をした結果、心身ともに再起不能となって損をするのは自分だけなので、建設的な解決に踏み切ることを決めた。仕事で忙しくなるといつもこういうことを考えているので、記録として残しておく。労働に魂を明け渡すな。あなたの人生は、働くためにあるわけではない。

 

2026年1月月報

 

概観

年末年始、帰省して埃っぽい実家の和室で寝起きしていたらハウスダストアレルギーがひどくなり鼻水が出まくり鼻を噛みまくり粘膜が傷つき、結果風邪をひいてしまった。運動が2週間ほどストップしてしまったが、それよりいい意味で気を抜いて仕事初めができ、無理なく労働をする基本の態度が形成されたことがよかった。去年の私は、あるPodcastで「給料以上に働きたくない」と言った方に対して「そんなこと言っていいんだ」という感想を抱くほどに労働に囚われていた。2024/2025の年末年始はインフルエンザで撃沈していたが、それを機に労働との距離感を改めようと思い直すことができた(いまだに改められていないが)。したがって、自分にとって体調が悪くなることは一概に悪いことではない。定期的に訪れる謎の発熱は、心身の限界を超えようとする自身の奢りに対する戒めだと思っている。

風邪が治りかけたと思ったら家のWi-Fiが使えず、修理に来てもらうも住んでいる建物自体に不具合があることが判明し、1週間近くWi-Fiが使えなかった。日々垂れ流していたYouTubeを失ったことにより、生活が円滑に回るようになり、YouTubeが与える脳への悪影響を無視できなくなってしまった。また、これとは別件で今年の目標としてショート動画禁止(アイドルと印度カリー子さんを除く)を掲げており、毎日の時間が長くなったような気がする。とりあえずショート動画は引き続き禁止したまま、YouTubeも目当てのチャンネルや動画以外を垂れ流すことはやめようと思う。

 

外出

凧揚げ

大学時代の友人4人と河原で凧揚げをした。風が吹きすさぶなか走り回り転げ回りながら凧と格闘していた。大人になってからの「遊ぶ」は基本的に飲食になりがちだけど、「広い場所で動き回る」ということもやってよいし、やるべきだ。

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南海電鉄

ウィンマジ期のコラボ乗車券で和歌山へ。関西人の和歌山旅行といえば南紀白浜や熊野詣になるので、和歌山市駅は意外と行ったことがなかった。ぬいと初めておでかけできた。自分(と友人)用のお土産で買ったじゃばら胡椒苦味と辛味と塩味が鶏白湯鍋にぴったりで重宝している。

 

現場/展示

舞台『十二国記』@梅田芸術劇場

宝塚歌劇団以外のミュージカルを観るのははじめて。梅芸もはじめて。前半のラストが好き。今の自分が過去の自分を抱きしめるイメージに弱いため。

 

プラカードのために@国立国際美術館

笠原美智子さんと金川晋吾さんの対談を聞いた上で鑑賞。笠原さんの「心がマッチョな男性アーティストの『どうだ!』という感じの作品が苦手」という話が面白かったけど、自分は「どうだ!」に誤魔化されていることも多いなと反省した。

国立国際美術館は、コレクション展含め西洋の有名作家ばかりを取り上げるのではない、現代アート中心にかなりストイックなキュレーションを得意とする美術館だ。京阪神エリア外から旅行に来られる方もぜひ行ってみてください。

 

映画/ドラマ

映画

予習で逆シャア、ハサウェイを観たけど、ファム=ファタル概念アンチのため(?)いまいちハマれず。逆シャアの映像はすごかった!コロニーを外から映すシーンとか2026年の今観てもかっこいい。ファムファタルと言われるとき、「お前が勝手に好きになって勝手におかしくなってるだけなのになんでそれを人のせいにするんだ?」と怒りが湧いてしまう。成熟した人間(しばしば男性のみを指す)の理性の過信から生まれた概念だと思います。

落下の王国ヤンヤンポンヌフの恋人など、映像の美しさに定評のある作品を映画館で観れるのは貴重な機会なので、迷わず観にいきたいと思いテアトルシネマ会員になった。テアトルグループの映画館(具体的にはシネリーブル神戸)には、自分が過去大きな挫折を経験したときになんとか回復するための力を与えてくれた恩義がある。

退勤後にテアトル梅田で映画を観ると、魂が癒された。仕事ではつねに理屈を求められ、締切に追い立てられている。苦しいことがあるとただそれだけを言い出すことができない。その苦しみの原因は何か、解決策は何か、いつまでにそれは解消するのか。これらの問いに答えなければ、苦しみを吐露することすら許されない。

映画は、ただ苦しいとか、悲しいとか思うだけでいい。よくわからない映像になんだこれと首を傾げてもいい。映画を観ることは、秩序に縛られてカクカクとした時間から、私自身に合わせたぐにゃぐにゃした自然な時間へと、仕切り直すような効能があるように思う(テアトル系列で上映されているような作品は特に)。

 

ドラマ

  • ブリジャートン家S4前半

まわりに観ている人がいないのですが、おすすめです。ポリコレでエンタメが面白くなくなってしまうと気がしている人に是非観てほしい!

今回はNetflix予算のなろう小説だった。シンデレラストーリーといえばそうなんだけど、なろうの方がしっくりくる。なろう小説ポイントは「ヒロインであるメイドが家主と揉めて家を追い出されたら、実は有能すぎて辞めた穴を埋めるために4人新しくメイドを雇わないといけなくなってしまった」ところ。

一時期なろう小説をかなり読んでいて、聖女、薬師、針子、領地経営……あらゆる職種で、主人公は仕事においても「客観的に」有能だということがなろうにおいてかなり重要なんだと思う。「客観的に有能である」ということは能力主義が作り出した幻惑だけど、多くの人は客観的に有能な主人公に共感したいと願う。なろう小説で得られるカタルシスは保守的な価値観に基づいたものが多いんだけど、読者には人から承認されたいという強い欲望が根底にあって、それを満たすためには規範に沿った形で正しく、良い人である必要があるというだけなのであまり驚かない。また、ブリジャートン家はあくまでも貴族社会の話なので、そのレベルの保守性は意外ではない。が、サブのストーリーライン(中年の性欲、アセクシュアル的なパートナーシップのあり方などなど)がかなり面白かった。後半が楽しみ。

感想はFilmarksに入れています。

onisamさんの映画レビュー・感想・評価 | Filmarks映画

 

音楽

去年、何も考えずに音楽を聴いていたら年間で4,5枚しか新しいアルバムを聴かなかったことを反省し、1ヶ月でよかった曲を1日1曲追加するという一昨年にやっていた試みを復活させることにした。年末読んだ津村記久子のインタビュー本『ふつうの人が小説家として生活していくには』も聴いたことのない音楽に挑戦する勇気を与えてくれる本だったので、新しい曲を聴くのが億劫な時に思い出していた。

onisamの2026/01 - Apple Musiconisamの2026/01 - Apple Music

好きなのに全曲は聴けてなかったアーティストのアルバムを全部聴く企画を自分のなかで勝手に始めて、1月はtofubeatsを聴いていたのでtofubeatsが多めです。

 

bookmeter.com

先月からアイドルのことで思い悩むことが多かったのでアイドル研究の本をよく読んでいた。と思いきやあまり読めていない気もする。

 

ブログ

1ヶ月1記事を目指していたが早くも達成ならず。今描き途中のものは2月前半にはあげられるかな。

月報を書けば毎月ブログを書いていることにはなるが、まあそれではいかんだろう(いかんわけではないが、まとまった文章をうまく書けるようになりたい)ということで、2月もがんばりましょう。

ストイシズムとセルフケア

 

人生はね、ジョーン、不断の進歩の過程です。死んだ自己を踏み石にして、より高いものへと進んでいくのです。痛みや苦しみが回避できないときもあるでしょう。そうした悩みは、すべての人が早晩経験するものなのですから。(中略)あなたがそれを知らずに終わるなら、それはあなたが真理の道からはずれたことを意味するのですよ。

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』(早川書房)138頁

子供の頃から「努力」という言葉が好きだ。
何かを犠牲にすることを選択してでも自分自身を変容させるという営みを美しいと思う。何もしていない自分よりも、頑張っている自分の方が好きだ。努力している人のことも好きだ。
 
2025年9月13日、はじめてINIの単独コンサートに行った。『2025 INI LIVE [XQUARE - MASTERPIECE]』は素晴らしい公演だった。セトリ、衣装や舞台演出などすべてが圧巻で、クオリティの高いエンターテイメントショーであったことは言うまでもない。しかし最も心に残ったのは、メンバー一人ひとりのパーソナリティや個性が――真剣なファンになる前の私でさえも感じ取れるほどに――表現されていたことだった。そして、私が後藤威尊さんから感じ取ったのは、「努力」だった。
 
後藤さんをはっきりと認識したのはのAMAZE MEだった。まったくの未経験から数か月でベースギターを練習していたことに衝撃を受け、自然と目が後藤さんに惹かれていくようになった。モノクロのVCRでは自分を解放する言葉としての「自分のペースでやる」という力強い言葉に胸を打たれた。Non-Stopでは、タンクトップ白シャツにロング革手袋というあり得ない衣装、後藤さんの鍛え上げられた身体と表現力に圧倒された。BrighterやMirrorでの、会場全体を包み込むような眼差しにメンバーやファンへの愛と誠実さ、ステージにかける情熱を感じ取った。
この人は、常に過去の自分から進歩していく人だ。苦しいこと、つらいことを乗り越えて、高みを目指せる人だ。自分に厳しく、苦難に立ち向かえる人だ。この人のことをもっと知りたい。この人のことを応援する、と決めた。
 
個人的な話になるが、2025年は労働との付き合い方を変えようとした1年だった。きっかけは2024年末、毎日朝から夜まで11時間以上働き、2週間毎日3食コンビニのご飯を食べていたところ、休暇に入った途端に39度の熱が出て、年末年始を高熱と激しい頭痛とともに過ごした。職場は労働基準法は遵守されているものの、長時間労働がしばしば発生する。年末年始のことがあってからというもの、「繁忙期が落ち着くと気が緩んで免疫が弱るのか高熱が出る」という謎のリズムができてしまった。今年に入ってからも2回ほど高熱を出している。
 
さすがにこのままではいけないと思い、資本主義や労働を批判する本を読んでみた。そこには「ほどほどに頑張る」とか「頑張らない」といったことが書いてあった。頑張らないことができない人はどうすればいいのかは書いていなかった。本当は頑張りたくないときでも、頑張らなければいけない状況におかれると頑張らないという選択ができない人はどうすればいいのかを教えてほしかった。根本的に頑張りたい性質の、労働に過剰適応してしまっている私はどうすればいいのかを。欲しかったのは、優しい言葉ではなくて、どうすれば自分の心身に対する労りと努力を両立できるのかという問いに対する答えだった。
 
2025年9月14日以降、INIの過去コンテンツを可能な限り視聴した。後藤さんについてより多くのことを知りたかった。丁寧で力強いダンスを長い時間観たかったし、イニフォルで時折垣間見えるストイックな瞬間を発見したかった。編み物が好きなのでトレカケースをかぎ針編みで自作することにも没頭した。ラインストーンデコで威尊の「威」の字を書いたり、100均で後藤さんに似合う手芸パーツを買い漁ったり。楽しかった。仕事が暇な時期だったからでもあるが、無理に働くことを意識的に避けられるようになった。仕事以上に優先させるべき欲望ができたからだ。自分のリソースは、後藤さんのことを知ること、後藤さんから着想を得て何かを表現することに割きたかった。フルタイムで働き始めてから、仕事以上にこんなにアドレナリンが出ること、楽しいと思えることはなかった。9月はほぼ毎日3~5時間睡眠で、毎日意識が朦朧としていたが、以前よりは遥かに幸せだった。自分の健康のために休むことは相変わらずできなかったけども、自分の欲望のために仕事を切り上げるという身体感覚を掴めた。
 
コンテンツを追いかけ、ものづくりに没頭している間にも後藤さんを好きになった要因である「努力」について、ずっと考えていた。結論、後藤さんの「努力」は、自分が志向していた、自分の心身を犠牲にし、血と汗の滲むような努力とはまったく異なっていた。
 
後藤さんも指の皮が捲れるくらいベースを練習したり、手に豆ができるほど太鼓を叩いたり、食事を制限して体づくりをしたり、仕事のために無理をする場面もある。けれども、それは彼のなりたい姿、彼がファンに見せたい姿に向けてのものだ。後藤さんが大事にしているという「今の自分の努力に未来の自分が感謝する」という言葉に衝撃を受けた。自分のために頑張るということを忘れていた。そうだ、努力とは、なりたい自分になるためにするものだった。誰かの期待に応えたり、他人と自分を比べて競い合うように無理にするものではなくて。自分自身のために頑張ることをして良かった。
 
フルタイムで働き始めてから、手段と目的が逆転していた、というよりも目的が抹消され、「頑張る」という手段だけが残っていたのだ、と気づいた。苦しむことに執着していた。心身のことも顧みず、ただひたすら労働に打ち込んでいた。そうでなければ心が折れてしまいそうだったから。自分自身を大事にさせてくれない環境では、自分自身を大事にしないことを正当化するための論理が必要だった。苦しむことによって、私は成長できると思い込んでいた。たしかにストイックに頑張ることは、自分を傷つける行為だ。けれども、それは変容の過程であって、苦しみそのものからは何も得られないのだ。
 
後藤さんは、自分を大事にすることを主軸に置いた努力をずっと続けているように思う。なりたい姿になるため、というのもそうだしやったこと、やり続けていることによって自信をつけるという意味でも。闇雲に頑張るのではなくて、合理的に考えて成果を出せる人だと思う。ボディメイクにせよ、パフォーマンスにせよ、目標に対する適切なプロセスを考え、時に軌道修正しつつ日々地道に継続することができる。やっていることに根拠があり、そしてそれをきちんとやって自信をつけているから安定している。MASTERPIECEのVCRでも言っていたけど、後藤さんは「自分のペース」という言葉をよく使っていて、他人と比較しないということでもあるし、無理をしないということでもある。そういう、持続可能で、セルフケアと両立したストイシズムという後藤さんの努力の形をリスペクトしている。
 
上記はすべて私の解釈で、実際後藤さんが実際どう考えているのかはわからない。それでも、インタビューや、コンテンツで話してくれることを見聞きしたことで、どうすれば健康的に頑張れるのか?という問いのヒントを得られたと思う。答えはまだ見つからない。この文章を書いている今も絶賛繁忙期で、限界を見失い、気合いと根性で乗り切ろうとする悪い癖が発露している日も正直ある。だからまた高熱を出すかもしれないし、いつか心身の調子を大きく崩してしまうこともあるかもしれない。アイドルに出会ったから、全てが解決してうまくいくわけではない。仕事はやりがいもあるから、一念発起して辞めることもない。日常は続いていく。
 
それでも、後藤さんを好きになってから、セルフケアが上手くなったと自信をもって言える。寝食を忘れて夢中になるくらいに魅力的な後藤さんでなければ、仕事の優先度を下げることはなかっただろうし、合理的な努力家である後藤さんでなければ、私の悩みはずっと解消されなかっただろう。そして何より、後藤さんを応援していると平均的に明るく楽しい日々を過ごせる。毎日投稿されるコンテンツ、ウィンマジ、プライベートメールで、かわいくてかっこよくて、優しくて、少し変で、ストイックなアイドル後藤威尊さんを見ると、何もない日常でも明かりが灯る。バンテリンドームから今日まで毎日、後藤威尊さんのことを好きになれて良かったと思っている。
 
 
威尊、いつもありがとう。あの日あなたが紙吹雪に書いてくれた言葉で、頑張りたくても、つらくて折れそうな自分のことも認められるようになったよ。これからもあなたを応援しながら、自分のペースでやっていくね。
 
みんな、自分のペースでね 頑張りたい時は俺の背中を見ろ!疲れた時は俺がそばにいるよ。

TAKERU

映画『I Need I』感想

 

目次

 

 

 

MINIは必要


 2025年9月15日からINIを必死に追い始めて、さまざまなコンテンツを見るたび、いまいち納得しきれなかったことがある。それは、INIにおける"I"の用法だ。特に、「I(あなた)と繋がる」と言う時に、あなたはYOUだろ、と思うと同時に、INIが MINI(ファン)を非常に大切にしてくれるグループが故に、若干の危うさを感じていた。つまり、ファンを大事にしすぎていないか?ファンを大事にするが故に自分自身のやりたいことをやれていなかったり、逆にやりたくないことをやっていたりしないか?またそうした自他境界の曖昧さをグループ名として肯定する姿勢は(事務所として)大丈夫なのか?

 なので、I Need Iというタイトルをあらためて見たとき、これは私向きの映画ではないかもしれないと思った。目的語としての"I"はおそらくファンのことに違いなく、また表題曲である「君がいたから」も MINIに向けた愛情を歌った曲であるように思えた。もちろんメンバーが作詞した歌詞はとても心に響くし、私もあの日バンテリンドームナゴヤで横並びになって歌うINIの輝きに感激した一人だ。だけれども何回も聴いてはいなかった。自分が、分不相応な大きな物語に取り込まれているような気がしたからだ。私がド新規であるというのもあるだろうが、いや、でもそれはあなたたちの物語だよと言いたくなってしまう。もちろんあなたたちがつらいときにファンの応援が力になることもあるのだろうけど、それでもあなたたちの努力があってこそなんだよ、と言いたくなる。


 前半はこうした文脈、つまりI= MINIとして読めるパートで、これが続くとなるとかなりキツいなというのが率直な感想だった。MINIがいないと自分たちは活動できない、MINIは本当に大事な存在だ、と語られるパートと、『The FLAME』がオリコンで初めて「2位」だったという大きな挫折、そして『The FLAME』がゴールドディスク認定されたという出来事が同じパートに収められていた。この編集を事務所(余談:最初にでかでかとYOSHIMOTOの文字が出てくるの嫌すぎ)が許容したのはどういう意図なんだろうかと思うくらい率直なメッセージに見えた。MINIがいなければCDもチケットも円盤も売れない、MINIがいなければ活動できない、という事実。

 数字。今時、一定以上の熱量でアイドルを応援する人で数字が気にならない人はいない。CDが何枚売れたのか。ランキングは何位か。インプレッション数は。再生回数は。高評価数は。トレンドは何位か。タイアップ商品の在庫は。今の数字が未来のアイドルの活躍、露出に直結するかもしれないという共通認識。実際、エンタメ業界において、その認識はおそらく誤っていない。

 尾崎が、「数字ばかり見るのは今の時代にそぐわないのかもしれないが、アイドルという職業をやっている以上、数字はやっぱり重要だと思っている」というようなことを言っていたのがとても印象的だった。尾崎は今の時代にそぐわないこともわかっているし、自分が「数字が大事」と言うことによってファンの行動に対してどのような影響を及ぼすかもよくわかっているはずだ。にもかかわらずあえて、ドキュメンタリーのカメラの前でそれを吐露するハングリー精神。話がそれるが、この映画の中で一番心配になったのが尾崎で、途中個人活動に関して「今は体が壊れてもいいから自分がINIの知名度を上げないと」と言っているパートで「それはあかん!」と叫びたかった(これだけのために応援上映に行きたい)。

 一方で、そうした「推し活」は、人気や知名度と、実績に差異を生じさせてしまう。主に西、許、髙塚から語られたのはそうした葛藤だったように思う。髙塚は「ドーム、とかオリコン一位とかはもっとすごいイメージだった。今の自分たちがそれにふさわしいのか」と言っており、許は「大衆みんなに聴かれているような曲はそこまでない」と評価していた。西の発言の詳細は失念してしまったのだが、同じベクトルだった記憶がある。「下積みがない」こともよく言及されるけど、グループ自体がオーディション番組という、多くの耳目を集めるフォーマットから始まり、また現代のアイドル応援の形式が数字重視になっている今、こうした不安、葛藤はなかなか避けられないのだろうな。ただ、池﨑がオリコンの結果に対して、「本当にMINIは頑張ってくれている」と発言し、半ば胸を痛めている様子をみると彼らは、もっとMINIにCDを買ってほしいとは思っていない。というよりかは、自分たちがもっといい曲を出して売れたい、母数を大きくして、名実ともに1位になりたいと言っているように見えた。


ラポネエンターテインメントは大丈夫じゃないのかもしれない


 そう。もっとCDを買ってほしいのは事務所だ。チェパートでこの映画のなかで最高潮の怒りを感じたのは私だけではないはず。正直私はチェのことを割と評価しているほうだった自覚があるのだが、紅白落選をメンバーに告げるところで大嫌いになってしまった。その時のことを振り返ってチェは「メンバーはこれ以上ないくらい頑張ってくれていたから、事務所の力不足(ほんとだよ)が悔しいという意図で伝えた」と振り返っていたけど、ほんまにそうか?って思いませんでしたか?なんか、「いや君らが悪いわけじゃないんだけど~」と言いつつなんとなくすべての責任を感じているわけではなさそうな管理職すぎて。応援上映でブーイングします。

 一番やばいなと思ったのが、KyoさんがINIのパフォーマンスディレクターをした経緯。木村が「デビュー初期は自分が振りをメンバーに教えていて限界があったので、会社に掛け合ってパフォーマンスディレクターとしてKyoさんを採用してもらった」と言っていたときは本当にラポネはダメなんだと思った。木村がKyoさんと知り合いじゃなかったら、どうするつもりだったんだ?木村はダンサーとしての経歴はあるとはいえ、新人アイドルなのに、どうして事務所の誰もこの状態のやばさを検知できず、木村が声を上げるまで人を投入しなかったんだ?

 このやばさを踏まえると、FTCの涙の意味がものすごく変わってきて、私はここで初めて泣いた。Kyoさんが言う通り、もともと木村はリーダー的な性格ではなく、だからこそ、様々なメンバーの違いを受け容れる土壌がはぐくまれている(断定)のですが、本人は本当に本当につらい時期もあったと思う。「あの日から、居場所はここにしかないから」というコメントを初めて聞いた時、閉塞感を覚えてしまって感動に没入できなかった。その理由の一端がこの映画をみてわかった気がする。ラポネ、お前です。

 ドキュメンタリーのなかでもINIのメンバーが「会社としても前よりはよくなっている」「事務所をよくしていきたい」と細かく挟んでいて、いや、ドキュメンタリー映画でも漏れ出る事務所への不安と不満って……。好きなアイドルが全員ラポネに所属しているので、本当に勘弁してください。まともな事務所になってください。人手が足りないなら人手を増やしてください。それが管理職の仕事です。


Masterpieceへの道のり


 映画の話に戻る。作中、一番の落ち込みどころはFTC。個人仕事も増えてきて、11人そろう時間も少なくなって、パフォーマンスの練習時間も取れなくて、同じ方向に向くのが大変だと吐露するメンバーたち。


 それでもいろいろあったFTCを大成功で終え、LAPOSTAソロコン11へ。ソロコンの練習風景や各個人の思いがしっかり聞けたのはこの映画のとても良いところ。ソロコンでまた11人別々の方向に自分のしたいことを実現して、改めて11人集合して自分の意見が言えるようになり、XQUAREやThe Originというとんでもない作品が出来上がった――。あえて言いますが、この物語構成は「物語」ではなく、「事実」です。
 なぜなら私自身が、Masterpieceでいたく感動し新規MINIとして友達MINIにRTPの映像をみせてもらって驚いたから。同じドーム公演でも、コンサートとしてのクオリティが全然違う。もちろんメンバーのパフォーマンスは素晴らしいのだが、VCRの「今これは何の時間ですか?(アイドルを見る時間です)」感、セトリの構成などが地に足がついていなくて、Masterpieceで感じた、どっしりとした、いいものをみたなあという心からの満足感にはいたらなかった。

 XQUARE本公演の企画フェーズで、抽象的すぎる演出家の言葉でこのギャップの理由が腹落ちしてしまった。公演のイメージが湧かなくてふーん?と思っていたら、西も池﨑も不安になっていて安心した。池﨑が「Potionを使うなら、戦いの合間のセーブポイントみたいな、物語があるといいんじゃないか。これは今頑張って考えて言っているんですけど」と発言しており、ああ、だからMasterpieceができたんだと思った。今まではあまり発言できていなかったメンバーも、ソロコンを経て自信をもてるようになったのは確かであるように思う。顕著なのが、松田が積極的に発言する場面で「4年間で一番頑張りました」と言っていて、練習でも自分から提案するのは勇気がいることだったんだ、というのと、それでもこの公演をよくしたいという思いで頑張ってくれてありがとうの思いでいっぱいになった。そして松田は自分の見せ方を無意識的に理解している天性のスターだなと常々思っているので、そのセンスが今はグループでも活かされているんだと知れてうれしかったし、今後も楽しみです。

 おそらくXQUARE本公演では、メンバーの意見を取り入れることを事務所は想定していなかったのではないかと思われるが、Masterpieceではその想定でスケジュールが組まれたのでは、と推測できた。つまり次回以降の公演も、INIの意見が反映された作品になると予想でき、早く現場に行きたくてわくわくできたのもよかった。


 アイドルが自分たちで意思決定をするプロセスを設けるというのは、冒頭の、推し活への葛藤に対処するのに有効だと思う。何も決めさせてもらえず、練習をするしかなくて、結果を待つだけという歯がゆい状況よりも、自分たちで決めたほうが結果が出なくても納得できたり反省できたりすると思う。そして実際、メンバーが考えて作り上げてくれた作品は素晴らしいものだった。そのおかげで私はMINIになった。本当にありがとう。

 

結局、Iって誰なんだろう


 見終わったときに私が想起したのは「3D」だった。”I”への違和感の答えを自分はすでに持っていたけど、この映画を観なければ明確には気づけなかったから、最後に残しておきたい。これはメンバー作詞ではないけど、「3D」は「本当の自分」という価値観に抵抗する曲だ。「本当の自分」というとき、私たちは、変わらない、他人や社会に影響されない、核となるような主体の存在を想像する。だけれども実際、そんな領域はあるのだろうか?私たちは日々、人と会話したり人の意見を聞いたり見たりして、誰かに影響を与え、与えられながら生きている。そのなかで、自分自身も考えを変えたり、変えなかったりして、日々刻刻と自分は変わっていく。


 なので"I"もそのような「私」なのだと映画を通して理解した。MINIに影響されるINI、INIに影響されるMINI、メンバーに影響され合うINI。そして、様々な経験を乗り越え、成長する自分自身に影響されるINI。INIにおける"I"のスペクトラム性を描くドキュメンタリーだった。そういう"I"として聴くと「君がいたから」の「君」もいろんな解釈ができる気がして、これからはたくさん聴くことになるだろうと思います。

 

 

 

 意地悪な見方をすれば、この映画はMINIに対して「INIは安心して応援できるグループですよ」というアピールだなとも思っていて。わかりますよ。本当に、メンバーみんな聡明で、アイドル歴も5年というのによくここまで自分たちで考えて頑張っていて、尊敬しています。そういう人たちだから好きだし、これからも応援するけど、心から安心して応援できる環境を整えてほしい、と思ってしまった。というのが初回の感想でした。

朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』感想文

この記事は、朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』(以下、メガチャー)の感想文です。既読の人が読むことを前提に書いてます。ネタバレもします。

www.hanmoto.com

 

目次

 

隈川絢子の届かない手紙

 
 メガチャーを読んでいて一気に心をわしづかみにされたのは、絢子が亡くなった倫太郎に対して語りかけるシーンからだった。会社で読んでいたのに泣きかけた。会社でなければ泣いていた。特にこの辺。

あなたのように、きっと私も。
そんなふうに、あなたの姿に自分を重ねていた。
だから今は、好きだった人がいなくなったんじゃなくて、前を歩いてくれていた人が――いや、私自身がいなくなった、みたいな感覚なんだ。(149頁)

 この自他境界の曖昧さ。自他境界警察(?)の人は白目をむいてしまうことだろう。のちに国見によって自他境界があいまいであることは信者気質の特徴として取り上げられるが、自他境界があいまいだからなんなんだよと常日頃から思っているので私には効きません。みんながみんな、自と他の境界が明確で、何にも依存せず、ヘルシーに生きている世界なんてあるわけねえんだよ!
 
 一方で、楽しく俳優を応援してただけの絢子が陰謀論にのめり込んでしまう過程を追っていくのはつらかった。自分の片割れくらい大事な人を亡くしたことが受け容れられないこと、低賃金であることに怒りを覚えること、何も間違っていないのにどうしてああなってしまったのか。陰謀論とは社会基盤すべてを疑うことで、一発逆転を狙う思考回路が引き寄せてしまうものなんだろうなと思う。そして絢子は別に社会的な地位の転覆とかを望んでいるわけではないのが悲しい。「推しが死ぬはずない」という一点だけに賭けられているのが、本当に悲しい。
 
 

武藤澄香と私

 
 ところで私がメガチャーを読んだのは、2週前バンテリンドームに行ってからあるアイドルのことしか考えられなくなってしまったからだ。平日2日徹夜してYouTubeの過去コンテンツをみ漁ったり、メルカリで過去トレカを買い占めようとしたりして、好きで好きで、苦しくて止まらなくて、助けてくれと騒いでいたら同行した友達から「メガチャーを読め」と言われて、読み始めた。
 

荒ぶるオタクにメガチャーを推奨する友達※掲載許諾済
 バンテリンドーム1日目見終わった後、最近ランニングにハマっていることもあり、「(物理的にも)一緒に走りたいんだよな」と言ったら同じ友達に「メガチャーや!」と叫ばれたので、どういうことなんだろうと思ってたら武藤澄香でした。
それは多分、収縮を繰り返して弛緩しきっていた視野がある一点に定まってくれてたからだ。
道哉という一点に。
快感だった。
久しく出会えていなかった幸福感だった。
(212頁)
 身に覚えがありすぎて爆笑。武藤澄香と私は単推し派なのだ。箱推し、ケミオタと自信を持って言える未来が見えない。もちろんメンバーはみんな好きだし、ケミも好きだけど、お金を払うまでにのめりこむには、この人に賭けると決意することが必要だ。国見の言う通り(192頁)その「一人」が見つかるかどうかが私が熱中できるかどうかの境界になる。
 
 その一人を決める上で、自分の人格もしくはその延長線上としてのなりたい姿との類似性が見いだせるかが重要になる点でも澄香と似ている。私がそのアイドルに強烈に惹かれたのは、彼が努力を愛しているように見えたからだ。自分自身が立てた目標に向かって日々精進し、それでいて優しさ、明るさを失わない彼のようになりたい。自分の人生の一部を彼に見出し、彼を応援することで、自分の人生も応援しているのだと思う。
私も。
私も一緒に変わりたい。
あなたが変われる世界なら、私もきっと変われる気がする。(213頁)
 わかるよ澄香。私も背中を見て10km走れるようになりたいよ。
 
 落ち着くためにメガチャー読んだくせに感想文書いていると加速しているような気がするけど、実際結構落ち着いた。澄香と似ているところや共感できるところが多いゆえに、違うところを意識できたからかなと思う。CDをそこまで積まないところ、スミンなどをマメにやるのが苦手なところ、自分の生活がいちばん大事という正気。落ち着きたいオタクのみんなへ。メガチャーを読むといいよ。ただこれは、私が澄香より5歳くらい年が離れており、サラリーマンだからというのもあるとは思う。
 
 

人間の認識能力の限界と視野狭窄

 
 最初読んだとき澄香はアクスタ盗むし陰気だしあんまり好きじゃないなと思ったんだけど、たぶんあまりにも大学時代の私すぎて同族嫌悪が発露したんだと思う(アクスタ盗むのはダメ)。コロナ禍の時はとくに人と触れ合える場所がTwitterしかなかったから、澄香と同じように視界も収縮してた記憶がよみがえってきた。今のTwitterバトルフィールド(公式)なのでまともに見るものではないよ、と言いたい。
 
 この物語で澄香が何度も言っている通り、視界を凝縮することでむしろ人間は動けるようになる。視野が狭いと目的が定まりやすく、次にやるべきことが明確になるからだ。これは実際正しいし、大事なことだと思う。メイン3人の極端な視野狭窄がすさまじいだけで、そもそも人間の脳みそは視界を開けて動けるようにはできてないと思うのでいったん視界を狭めてみること自体は悪いことではない。澄香もいったん親にしこたま怒られてちょっと落ち着いたらいい感じで視野を狭めたり広げたりできるんじゃないかな。
 
余談:視野狭窄した人の中で、唯一まっとうに咲き誇れたのが道哉なの、朝井リョウアイドル好きやな~。
 
 

リアコと信徒の違い

 
 国見の分類に従えば、澄香は疑似恋愛気質ではない。疑似恋愛体質と信者体質を区別するのは、物語とオタクとの関係によって定義される。疑似恋愛体質は、「物語に没頭するどころか自分もその登場人物になる」(261頁)ので、物語の中には、アイドルと自分の二人が存在している。対して信者気質の物語にはアイドル一人しか存在しない――ように見える。アイドルの中に自分の一部分を滑り込ませているからだ。この分類に従うと私は信者気質に当てはまるんだな。
 

どうしてもアイドルファンと呼ばれる人を書くときによく設定としてあるのが、恋心から大ファンになっていってっていう話はまあ読んだことあったりとか見たことあったりとかするかなーと思っていて。(中略)恋心とはちょっと別の形で、武藤さんはファンダム経済に組み込まれていく。

youtu.be

 
 異性愛中心主義的な社会のなかで、自分のジェンダーとは異なるアイドルを応援することは異性愛として解釈されがちだ。メガチャーはその解釈にNOをたたきつけた点でいい話だな~と思う。信者気質が疑似恋愛気質よりも優れたものとして描いたのではなく、フラットにこれはおかしな行動だけれども、恋愛ではないと言い切った。恋愛にも、自分の一部分を対象に見出して、その人を好きになることはあるけど、恋愛が持っている規範的な力が強いので、とりあえず、恋愛とは違うっす、と言うことがまずは大事だと思った。
 
 

メモ:オタクの輝きとなぜ働

 
 文学において、一番嬉しいのって「絶対に間違っていることを本気でしている人間の輝き」なので、ラストの陰謀論vsアイドルオタクの光景は本当に眩しい。澄香はチャミスルのままでいいと思う。バランスよく、健康的に、無理せず応援することが推奨されるのはわかるし、私も知り合いの若い人がそうなっていたらまっとうなアドバイスをするだろうけど、みんながまっとうであるべきとは思わない。おかしくなる自由があると言いたくなるんだけど。
「我を忘れて何かに夢中になったほうが楽だからです」(182頁)
 
 このあたり読んで想起したのが、三宅花帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』だった。

全身、コミットメントしてほしい。—―それが資本主義社会の、果てしない欲望なのだ。(中略)まずはこれを認めることからはじめよう。全身、コミットメントするのは、楽である、ということを。(255~256頁)

 なぜ働は言うまでもなく、労働中心主義を批判する本だ。反転すれば趣味や、推し活を肯定しているといえるかもしれない。だけれども上の引用箇所を見ると、推し活でも同じことが言えるのではないか?とどうしても思ってしまう。全身全霊で、推しを応援するオタクは面白い。チャミスルは輝いている。本当は半身で推すべきなのに。うーん、あまり考えがまとまらないのですが、メモとして残しておきます。

 
 

余談:国見と友達になりたい

国見さん。あなたには友達がいますか。(395頁)
 敏腕マーケターとしてアイドルの物語を操りオタクを暴れさせる国見だが、国見も神ではなく人間である。私は国見のことを萌えキャラだと思っていた。今も思っている。
 

「国見もまたマーケティングという物語に取り込まれている」説

 初読ではこの読みで、何にもハマれない、視野狭窄できないと悲しんでいる国見もまた、マーケティングや仕事という没頭できるものに飲み込まれているだけ、という。このブログ書くために考え直すとちょっと違う解釈が浮かんできた。

 

国見は本当に何にも没頭できない人間だが、マーケティングにあえてのめりこむことで何とか動こうとしているだけ説

「……だからもう何をするにも、自分はこうやって間違うって腹決めて脳みそ溶かして動くしかないんですよね。寧ろそうしない限り結局なにも」(440頁)

 迷いなくオタクを分析し物語を操縦する国見。それでもこれは本当にやりたかったことなの?あなたは視野を広く保ち大海原に耐えられる強さを持っていて、価値観が多様でない時代であれば、一番正しい人間になれたはずなのに。正解がない時代に生まれてしまって、間違うことでしか動けない世界で、動こうと思って、マーケティングを見つけたんだね。だけどそれも、本当は間違っていることをあなたは知っているんだね。それでも腹決めたんだね。このように考えると国見と友達になりたいな、と思うわけです。これも物語だね、国見。

 

 

久保田なぜ破滅エンドなのか問題と読者層

 
 道哉に付き纏い、戦略室を外された久保田は溶け残ったまずい味噌汁に戻ってくる。2人のすみちゃんは味噌汁どころか自分の信仰にお金を使うために何も食べなくなっているので、物語の中で味噌汁に戻ってくることはない。それがいいかどうかはさておき。
 
 小説は現実と異なり、筆者の意図や論理があるはずで、久保田はなぜ道哉に拒絶され、バッドエンドを迎えてしまったのだろうか?とどうしても考える。視野狭窄に陥ってしまったから?他愛無い雑談にケアを見出し、コンシーラーを塗っていたから?「男性的」な社会で「女性的」な文化に共感してしまったから断罪されてしまったのだろうか?または単におっさんだから?上記のような単純な理由で、物語上の断罪を朝井リョウがするわけないという謎の信頼。他の人がどう読んだかも知りたい。とりあえず私は「視野狭窄に陥らず、本質的な人間関係を構築し、本質的な仕事をしていると自負している読者を刺すためではないか」と読んだ。
 
 最終的に、久保田が思い直すのは、溶け残ったもの、つまり娘ときちんと向き合い直そうということだ。それはそれで素晴らしい結論のように思えるが、久保田がここで思いを馳せる娘とは誰なのだろうか?流行に惑わされず、洋楽を聴き、留学のために大学で勉強に勤しむ幻の澄香ではないのか?と疑ってしまう。両親から金を無心し、生活の全てをアイドルに捧げる澄香を、久保田は受け入れられるだろうか?
 
 作中、推し活と、現実的、本異質的とされる家族関係、友人関係は(あえて意図的に)同じ俎上に置かれている。現実の、建設的な人間関係であっても、「物語」が作用し、他者に向き合えたと思い込んでいるだけということがたびたび発生する。「異常」とされる推し活も、「正常」な人間関係も、実は全て同じなのではないか?
 
 また、仕事についても同様で、金を異様に請求してきてもなお、自分が経済的に頼られていることに満足する久保田は、溶け残しをうんだ原因の「本質的な仕事に没頭する過去の自分」から何も成長していないように見える。現実の澄香は推し活のために両親に嘘をついて金を全て使い果たす信者だ。そして信者を生み出し、貢がせる構造を作り出したのは、他の誰でもない久保田だ。ファンダムエコノミーなどという小綺麗な言葉遣いで、お前らが搾取しようとしている者たちを見よ。それがお前たちの「本質的な」仕事の結果だ。これが朝井リョウ日経新聞読者に対して向けた刃物ではないだろうか。
 
 個人的には、金の話を度外視すれば、推し活文化が肯定される今の社会は良くなったと思う。普通の正解の人生を辿らなければ異常と見做される社会より、みんなが各々の異常な人生を送る方が良いから。ただ金の話(資本主義)は罪がでかすぎて無視できないので、「推し活」に対してずっと微妙な気持ちになりながら脳みそを溶かしていくことになるんだろうな。
 
 
 
 朝井リョウの小説を初めて読んだけど、「紙で読むフィルターバブル」だと思った。読んだ人全員が自分の嫌なところ、見たくないところを直視させられ、それがずっと反響する。読みたくないのにぐいぐいと物語の荒波に押し流されてしまう。村田沙耶香『世界99』、村山由香『PRIZE』など、最近そういう大きな推進力を持った小説が一気に放出されていて楽しい(最悪)。朝井リョウが選書していた金原ひとみ『ヤブノナカ』も今年中に読みたいし、宇佐見りん『推し燃ゆ』も読み返したい。

 

 

2022大分弾丸旅行ー地獄めぐり/塩田千春展『巡る記憶』

 

 


以下は、人生で初めてひとりで県外旅行に行った記録(旅行の合間にぽちぽち書いたメモの集合)です。

 

 

 

 

事前準備

旅程は2日前に2時間くらいかけて組んだ。

 

ひとり旅行以前に、大分に行くこと自体初めてなため、不安と自分への不信感からこのようなことに。

 

果たしてこの通りに進むのか?

 

(この表はPDF化してLINEkeepメモに保存済み、画像でも保存してスマホのロック画面に設定しすぐ参照できるようにした)

 

 

自由に決める旅行にあまり行ったことなかったから、心理テストとかで「事前に旅程を立てますか?」という質問に答えられなかったけど、これで明確に答えられるようになった。

 

 

 

 

1日目

 

16時、阪神御影駅着。

 

船の中で食べる晩御飯と飲み物をコンビニで確保して直通バスへ。

 

焦りすぎて30分待った

 

 

22年間神戸に住んでいるのに、六甲アイランドポートアイランドの区別ができたのもここ数年のことで、たぶん六甲アイランドに来たのも片手で足りる回数だと思う。

 

乗船手続きを終えて1時間ほど待機。

卒業研究で参照する先行研究の本を読む(なぜ?)。

こういうときに必ず読まない本を持ってきてしまう。

 

 

一瞬迷子になった

 

 

1時間ほど待って、乗船し、また1時間後に出港した。

すぐ展望デッキに行って、見送ってくれている人たちを見た。

 

ちいさくてかわいい

 

のまま大浴場へ。ちゃんと大浴場で、窓がついていて、ジャグジーもあった。

僕以外に2人しかいなかったのでのんびり入った。

 

 

明石海峡大橋と影(写真に写っているのは橋全体の1/3

 

 

今回は2番目に低い等級の「プライベートベッド」にした。

相部屋だが、カーテン付きのシングルベッドにテレビとドリンクホルダーがついている。

 

鎌倉殿の13人も(電波が悪くて途切れ途切れで)観れた

 

お金に余裕があれば個室にしたかったけど、終わってみるとプライベートベッドが一番ちょうどよかった気がする。

 

部屋のグレードを上げても揺れることには変わりないし、カーテンがついているので相部屋のデメリットはそこまで感じなかった。

 

 

旅の途中はSNSをできるだけ見ないようにしようと決めていたけど、どうせさみしくて見てしまうだろうなと予想していたら、船のWi-Fiがどこに行っても通じなくて強制インターネット断ちになった。

 

 

 

インターネットがないと何もすることがない。

21:30くらいに横になったが、思ったよりも揺れてなかなか寝付けなかった。

 

 

 

 

2日目

 

 

5:00に目が覚めて、5:30から朝食バイキングに行った。

 

いつもの3倍量の朝飯

 

 

晩御飯が少なかったからか、早起きだったからか、全然食べられる。

「早寝早起き朝ごはん」ってこういうことですか?

 

ぼんやり食べてたら着港時間が近づいてきて急いで部屋に戻り着替えと荷造りを済ませた。

 

船を出る。

 

 

日が眩しい

 

 

 

マクドナルドでコーヒーを飲んで、徒歩で西大分駅へ。

 

 

西大分駅のホーム(エヴァンゲリオンの最後みたい)

 

 

西大分駅から別府駅へ。

別府駅から海地獄までバスで移動。登校中の高校生たちと一緒に移動していた。

 

鉄輪(かんなわ)周辺は至る所から湯煙が沸いていた。温泉地だ。

 

曇っていて雲なのか湯煙なのかわからない写真しかなかった

 

 

8:00、地獄めぐり開始。

 

 

海地獄

 

開地獄凸に成功。

 

 

昔は地元の人から「池の地獄」と呼ばれていたらしい

 

近くに資料館があって、鉄輪の観光業の歴史が学べる。

地熱で農業がうまくいかず厄介者扱いされていた「地獄」が明治期や大正期にかけて観光業として成立していく過程を眺めた。

 

 

独り占め足湯

 

海地獄と鬼石坊主地獄は隣り合っているため連続で行けます。

 

 

鬼石坊主地獄

ボコボコ

 

 

近くのカフェテリアでプリンを食べた。

 

プリン

心なしか温泉の香りがする

 

海地獄・鬼石坊主地獄から少し歩いてかまど地獄、鬼山地獄、白池地獄へ。

(これら5つの地獄は徒歩圏内)

 

 

かまど地獄

前ふたつの地獄と比べて商業色が強かった。

 

飲む温泉

ヒ素が入っているらしいが!?

 

 

おじさんが線香の煙を流すと水蒸気が液体になって見える実験をしてくれたのに、私ひとりしか見てなかったので気まずい

 

 

鬼山地獄

 

ワニがいっぱいいる地獄。

 

生きているワニも死んでいるワニも見れる

 

淡々と眠っているワニがたくさんいる空間が怖かった。

 

 

白池地獄



白くない!と言ってくる人がたくさんいたのだろうな……

 

そして実際白くない

 

生きている魚を展示しているところで「おいしい」って書いてあるの珍しい気がする

 

 

ここまで予定より時間巻きで行けてたので余裕かましてたらバスを間違えた。

 

リハビリテーションセンターに来てしまった……

 

学び:バスがわからなかったら観光所の人に聞いてから乗る。

 

このまま順調にいってたら、早々に地獄めぐりが終わってしまっていたし、ちょうどお昼時にだんご汁にありつけそうだからまあいいか……

 

 

血の池地獄

 

 

至る所に血と温泉にまつわるユーモアが散りばめられていた。

 

熱そう

 

実際暑い。日が照ってきた。

 

 

地獄にあるバス停だ

 

龍巻地獄



「龍巻地獄間歇泉原理説明」の迫力

 

噴射

上の石がないと30m噴き上がるらしい

 

 

12:00地獄めぐり終了。随所に足湯があったので足疲れなくて良かったです。

 

別府駅へ。

 

 

昼ごはんを食べた。

 

 

だんご汁ととり天の定食@豊後茶屋

 

 

とり天につけたかぼすポン酢おいしくて買うか迷った(調味料使いきれないから買わなかった)

だんご汁も美味でした。

 

 

 

今回、別府に行くきっかけになった塩田千春展へ。

 

 

塩田千春さんの作品を生で観るのは今回が初めて。本当に大量の糸が編まれていることがわかった。

 

BEP lab会場は卸問屋だった日本家屋の部屋に天井から床にかけて白い糸が張り巡らされた作品。

 

作品のある部屋の床は水で浸っていて、糸から水滴が落ちるたびに波紋が広がる。

 

 

作品解説がなかったので、なんとなく「呪い」を感じながら観ていた。

 

こじんまりした古い家に糸が巡らされている様は蜘蛛の巣を彷彿とさせたし、昔住んでいた人の霊が留まっているようにも見えた。

 

 

しかし作品解説を読むと、白い糸は別府の湯けむり=別府のエネルギーから着想を得ているらしかった。全然違う。

 

それでもやっぱりなんか「呪い」っぽくて、糸と糸で何かを繋げることには、つながりが生まれる側面と、束縛される側面が表れているのだと思う。

 

 

次の会場が見つからなかったので先にサテライト会場に行って、過去の図録を読んだり過去作品の設置映像を鑑賞したりした。

 

スタッフの方と少しお話しして、会場までの行き方を教えてもらい、新中華園ビルへ。

 

 

こちらの作品は、BEPラボよりもポップだった。中華料理店の華やかなモチーフで赤の毒々しさが緩和されているのかな。

 

作品の中を歩けるので、没入感があって楽しかった。

 

かわいい

 

 

写真でも美術館で展示したものしか見たことがなかったけど、

今回の展示は卸問屋や、中華料理店といった過去に他の用途で使われていた比較的小さい空間の作品だったためか、作品への没入感がより強くなるように感じた。

 

 

塩田さんは大分県内の30ヶ所をまわって今回の展示場を決められたそうで、中には美術館も候補に上がっていたらしい。が、できる限り塩田さんの要望に沿って今回の会場になった、とのこと。

そういう意味でもなかなか観れない作品なのではないか、来てよかったなと思いました。

 

 

 

 

グッズを見にショップにも行ってみたけど、図録はまだ発売されていないらしかったのでまとめてオンラインショップで買うことにした。

 

 

別府駅に向かう途中でよくわからなくなって、でかいパフェを食べてしまった。

よくわからないパフェ

 

 

 

別府駅に戻ってお土産を買って、西大分駅に戻る。

 

 

さんふらわあ号の乗り場は大阪行きと神戸行きで違っていて、間違えないかずっとハラハラしていた。

行き帰りで乗り場が違うことはないと思うんだけど、そういうミスをやらかしがちなので。

 

 

西大分駅のコインロッカーに預けた宿泊用の荷物も受け取れた。日帰りで1人の旅行だとコインロッカーのありがたみを痛感する。

 

船が見えたので海沿いに歩いて港に向かった。普段見ている海より視界が開けていて綺麗だった。

 

 

電車の車窓からもずっと海が見える。

 

2時間弱後、フェリー乗船して、お土産を買い足し、出港まで荷物を整理した。

 

ここからは写真撮ってない。

風呂入ってバイキングで爆食して歯磨きして寝た。

22:00就寝。

 

 

3日目

船内放送で目が覚めた。5:30起床。

食ってすぐ寝たからか胃もたれして朝ごはん食べる気にならず歯磨きだけして荷物まとめた。

 

日の出は見れず

 

出港と着港のときにかかるさんふらわあのテーマ曲がいい歌詞だった。

 

www.youtube.com

 

 

大阪鹿児島の便があるそうで、今度はこちらに乗ってみたい。

 

最高の夏2022・完

 

大分県は初めてだったけど、Googleマップと乗換案内を駆使したらなんとかなった。

いつか47都道府県制覇してみたい。